怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉(アルボムッレ スマナサーラ)
自分は基本的には温厚な平和主義だと思っているのであるが、日々の仕事の中で色々と不合理や理不尽だと思えることが重なりついつい怒ってしまうことがある。
怒った結果がトラブルになってそのフォローでさらに苦しい目にあうこともある。
全く苦しい限りである。ブッダのいう通りこの世は苦しみに溢れているとしか思えない時もある。
テーラワーダ仏教の長老のスマナサーラ師のこの「怒らないこと」は10年ほど前にベストセラーになっていた。私も藁をも掴むつもりで本屋でこの本を手にしたものである。もっとも、その日に担当していたシステムが大トラブルを発生させてしまい、様々な人々の怒りが我が身とその周囲に注がれるという自体を経験することになったが・・・。
師の説法を聞いたからといはいえ、すぐに悟れるものではないが、時々心を鎮めて自分の行動をふりかえり見ることで「怒りの火」を鎮めることは必要だと日々思う次第である。
以下は、心に響いた師の言葉です。(ページ数は10年前の新書版のページ数です)
p32
人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。
p34
人前では建前として、「私はダメだ。ダメな人間だ」と一応謙虚さを見せながら、心の中では、「絶対そうじゃない。私こそ唯一正しい人間だ。ほかの連中はいい加減で、間違っているんだ」というように考えているのです。
p40
自分の都合のよい結果を求めるのは、人間の途方もない無知です。
「うまくいってほしい」という態度は完全に無知なのです。
「自分は完全ではないし、他人にもけっして完全な結果を求めない」という思考が、この世の中で我々が落ち着いて生きていられる秘訣です。
p49
我々のおかしいところは、「競争しよう、競争しよう」といいながら、負けると「負けて悔しい」ということなのです。
p50
嫌なことをしつこく覚えておいて、思い出したりして、そういうろくでもない概念をまた延々と回転させるのです。この結果、怒りがうまれるのです。怒りはどんどん膨張して、他人を破壊する前にまず自分を破壊して、不幸を味わってしまいます。
p53
怒りの原因となる妄想概念を作り出すものは、「我=エゴ」です。エゴは「私」「俺」という固定概念のことです。
p54
そもそも「私は何々だから」と思うところから、世の中のすべての問題が生まれているといっても大げさではないのです。
p66
「怒りは本能なんだから、仕方がないんだ」と現状に甘えるのはたいへん危険な道です。「まあいいんじゃないか」と努力せず怠けることを仏教用語で「放逸(ほういつ)」といいます。
p69
「悪に向かって闘おう」「正義の味方になろう」というのは仏教の考え方ではありません。「正しい怒り」など仏教では成り立ちません
p132
本当に「怒りがない」ということは、怒る条件が揃っていていも怒らないことなのです。みんなにけなされているときでも、ニコニコできることなのです。
p138
本当にいいのは、怒らない方法をさがすのではなくて、ただ怒らないことです。
p143
怒りを治める方法というのはそれなのです。すぐ自分の心を観ること。心を観ることで怒りはすぐに消えます。
p145
臆病で弱くて自信がないひとほど、偉そうに怒るのです。
p152
「自分で気づかない根本の気持ち」と「自分で気づいている気持ち」が正反対なのです。正直者というのは、この矛盾が少ない人のことです。
p157
こんなことにならないためには、何があろうとも拒絶せず、状況を受け入れて楽しむことです。
p158
本人は確かにつらいでしょうが、それによって自分で自分の人生を破壊する必要はないでしょう。
p161
エゴは、自分が背負う十字架のような物です。エゴでプライドを作ってみて下さい。怒りそのもので、自分を破壊することになってしまいますよ。
p168
すべての問題の原因はエゴといってもいいくらいです。
p169
誰かに「負けたくない」と思うことは、けっしてよいことではないのです。正しい「負けず嫌い」とは、「自分に負けてたまるか」という気持ちなのです。
p170
覚えておいてください。人間は、自分がやるべきことをきちんと精一杯やれば、それでいいのです。他人との勝ち負けなど、いっさい考える必要はありません。
p172
いつもの毎日の中で、いつもならここで怒りだすはずの瞬間に、怒らないように心がけてみてください。
p175
わかりやすく言うとすれば「相手の怒りに智慧で勝つ」ということです。
p181
怒る代わりに笑おうという場合には、無知の代わりに智慧や知識が必要なのです。
怒らないこと (サンガ新書) [ アルボムッレ・スマナサーラ ] 価格:756円 |