怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈2〉(アルボムッレ スマナサーラ)
「怒らないこと」はなかなか実践が難しいです。本当に難しい。
私は実は結構毎日怒ってばかりです。それもつまらないことで。感情を表に出さないと気が多いですが、年に数回は人に対しても怒鳴り声をあげて怒ってしまうことが多い。。。ダメだなと思います。
ちなみに、怒られることも多いです。怒っている人が周りに多いです。
また、周囲でも怒られることを恐れている人も多いです。特に、上司やクライアントから怒られないことを最優先事項として行動している人が多いです。
環境が悪いのかな。コンサルタントやITサービス業では、そんな風に「怒り」が蔓延している気がします。この世界を変えるべきか、卒業すべきか・・・。どちらかというと、卒業したいですね(笑)。
前回、アルボムッレ・スマナサーラ師の「怒らないこと」を紹介しましたが、今回はその続編の紹介です。
前回のポストはこちらです↓
怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉(アルボムッレ スマナサーラ) - 隷属からの卒業
怒らないこと(2) (サンガ新書) [ アルボムッレ・スマナサーラ ] 価格:756円 |
怒らないこと(2)で気づきです。(新書のページ番号つき)
p25
なぜどうしても我々は怒ってしまいます。なぜなら生命は生まれつき怒っているからなのです。生きている限り、人間は怒っています。
そうか、生まれつき「怒っている」のか!?ある意味、デフォルトが「怒り」モードなんだということに気づくことが大切です。
p26
「無常」
無常こそが怒りの原因。
無常の本当の定義は「ものごとは瞬間、瞬間で変換し、消滅していく」ということです。
「無常」というのは仏教での重要キーワードの一つですね。「無情」ではなく「無常」です。
常に生成し消滅するというのは物理学の素粒子理論みたいですね。
素粒子理論では、実際にこの世の中に存在する粒子だけでなく、観測されない仮想粒子(ゴースト)なども現れてきて、なかなかSF的で面白いです。
ちなみに、私は院生時代に素粒子理論をやっていましたので、仏教の言説は妙に納得するところがあります。
p29
環境が自分の計画・希望と違う場合は、その環境に対して抵抗する気持ち、拒絶反応がおこるのです。その拒絶反応が「怒り」ということになります。
期待が外れたから怒る・・・ て、毎日です。だからと言って、期待を持つなというわけではないと思います。期待のない人生は虚しいです。むしろ、期待が外れても、怒らなくてもいい・・・くらいな余裕を持てるようになりたいし、それが可能だというのが仏道のようです。
p42
生きるという仕事は、あらゆることすべてが「苦」と「苦は嫌」という働きで成り立っているのです。つねに無常で変化し続ける「苦」という感覚があり、その「苦」の感覚が嫌で、「変えなくちゃいけない」という希望があります。その二つの働きが「生きること」になるのです。
人は、生命は、本来的にずーっと「怒り」をもち続けているのです。生きるとは、そのように基本的に怒ってしまう構造にはめられていることなのです。
油断するとこのデフィルトモードの「怒り」に支配されてしまいます。
p48
「これがあれば幸せ」というのは、ぜんぶ「嫌だ」という気持ちから出発しているのです。
「嫌だ」という怒りから、勝手に自分が「幸福」だと思っているものを求めます。その結果どうなるかというと、幸せになるどころか、逆に苦しみが増えるのです。世間の幸福を求め続けるなら、どんどん苦しみが増えてしまいます。
「世間の幸福」を求め続けるというのも考えものということです。
p138
「怒りをなくしてやるぞ」と思ってはいけません。怒りをなくそうというその気持ちも、怒りです。智慧で、怒りはなくなるのです。怒りは、理解することでなくなるのであって、戦ってなくすものではありません。
難しいですね、これは。「怒り」を無理やりなくすのは別の怒りを産むということです。
p145
智慧を育てなくてはならないのです。智慧を育てるためには大切なことがあります。それは「わかったふりをしない」ということです。
「わかったふり」をしがちな自分がいます。正直に「わからない」と言えることが大切。
p175
「われわれは自我が錯覚であるにもかかわらず、その錯覚の自我を土台・根本原因にして、自我・錯覚のために生きている。だから結果として、生きる道は、一貫して怒りに狂ってしまう。その怒りを他人に表現しようがしまいが、自分を破壊してしまう。」
我々の自我が錯覚というのはどういうことか?我々が信じしている自我にとらわれると本質を見失うことだと思います。ならば、その本質はどこにあるのか?
ここでは答えがありませんが、我々は自我が肥大し過ぎているというのは実感としてあります。そんな肥大した自我に乗っ取られているのが自分ということでしょう。
p170
悩むというのもまた怒りなのです。
ここまでくると、「悩んでいる」ことも、怒りに囚われていることと変わりがないないということになります。
「悩んでいる」ことに気がついたら、「悩み」を捨て去るべきなのでしょう。
ここまで書いてきて思ったのですが、怒らないこと(2)は、「怒り」に対する処方箋というより、自分を見失っていることを悟らせるために書いてあるような気がしました。
マインドフルネスとは「気づき」の瞑想と言われますが、自分を見失っていることに気がついて本来の自分を取り戻すこと・・・が肝要かと思います。